当館の歴史
当館の歴史は、現オーナーこと管理人の祖父にあたる先代の三河一郎が、昭和47年9月に開業した「民宿みかわ」が始まりです。
宿泊施設開業以前の昭和30年から40年代は、宮古水産高等学校の寮として北は久慈~普代~田老、南は釜石~大船渡からの生徒さんを受け入れていました。
つまり、昭和30年代に行っていた下宿業が宿泊業の原点になったわけです。
その後、管理人の母が跡継ぎし数十年。のちに2011年の東日本大震災の発災を迎えることとなります。
東日本大震災の発災
2011年3月11日。
私管理人にとって人生を左右する出来事が起きます。
東日本大震災。
宮城県沖を震源とするマグニチュード9の地震は、岩手県から宮城、福島県の沿岸に押し寄せ、沿岸に済む人々の尊い命、財産を一瞬で奪い去りました。
当館も例外ではなく、宮古市の沿岸部で事業を営んでいた旧建物は地震により発生した津波により全壊。
事業所であった民宿と自宅の全てを破壊してしまいます。
近所の大多数は幸いなことに浸水のみで済んだ家屋も多いなか、当館は津波により流れてきた車両数台が建物内まで流れ込み、結果それが躯体に致命傷とも言えるダメージを与えることになります。
修復は難しい....。
建築業に携わる親戚の判断でした。
昭和の腕のいい大工さんが施工した頑丈な木造2階建て。亡き祖父の話では、基礎には硬い木として有名な栗の木を使用していたようですが、車両が侵入した北側のダメージが大きく、のちに解体する決心をします。
発災から約半年後、旧躯体の解体が完了。
このたび解体された建物は今から遡ること40数年前、管理人が幼少の頃に建てられたもの。
こうして40年ぶりに同じ場所で更地を見た時、旧建物が建てられた頃の40年前の記憶が一気に蘇ります。
木造建築で10ヶ月ほどの工期で建てられた旧建物でしたが、解体はものの3日間で終了。
造るのにはあれだけ時間が掛かるものですが、壊すのはほんの一瞬。
なんとも切ないものです。
再建は諦める....しかし
当時市内の飲食店で働いていた私こと管理人。
実家を継ごうにも当時は観光客も工事客も少なく、母一人で切り盛りしている状況でした。
機会があれば三河の長男として跡を継ぐ。
そんな機会など都合よく訪れず筈もなく、その決心とは裏腹に当時の観光宿泊業はどこもかしこも業績低迷の一途を辿っていました。
そんな時代背景を背に、このまま家業は廃業して自宅だけを建て直す。
そんなつもりでおりました。
三河家は代々、商売で家系を継いできた歴史がある中で、私の代でその歴史に幕を下ろすことになるという事実と日々葛藤していました。
幼い頃から跡取り長男として重宝がられて育たられた記憶とは、まさに違う人生を歩もうとしてる自分が居ます。
「本当にそれで良いのか?」
「お前は家業を継がなくて良いのか?」
自問自答の日々でした。
そんな中で、グループ補助金の話が舞い込んできます。
当時会社員であった私ですが、私が会社を辞めても後釜となるべき後輩社員はいくらでも居ます。
しかし、三河家の長男で三河家の後を継ぐことができる人間は私以外に居ません。
そして、グループ補助金に申請するとともに、家業の後継ぎをする決断に至ります。
グループ補助金
東日本大震災にて被災、流出した事業所の復旧費用の3/4を国と県が支援する「グループ補助金制度」が発足。
当館も行政の指導のもと、関連する事業者さんとグループを発足し、グループ補助金制度に申し込みをするための準備に入ります。
しかし、当時の情報では申請を出しても補助金の認定を受ける合格率は25%という厳しいものでした。4件に1件の事業所しか認定をもらえないという事実。
最終的には、応募した殆どの事業所が該当になっていたようです。
膨大な量の書類の作成を強いられ、しかも各事業者分の書類の不備などが無いかチェックもしなければなりません。
市役所と職場と自宅を一日に何度も行ったり来たり。睡眠も休みもろくに取れない日々が数ヶ月続きます。
平成24年4月、第4次グループ補助金に申請を出すも落選。
グループ員が落胆していたのも束の間、第5次グループ補助金の公募が始まり、グループを再編成して再度申請。
平成24年12月に県より正式に承認を得ることができ、震災の発災から2年9ヶ月、事業所復旧の目処が立ちました。
開業準備
平成25年初頭から本格的に事業開始の準備に掛かります。
当時私は会社員。
会社の仕事をしつつ、行政への許認可届出、金融機関への融資申込み、建築メーカーさんとの連日に及ぶ打ち合わせ、補助金関係の申請など、休む暇はおろか睡眠時間もろくに取れない日々が続きます。
もちろん、会社への退職願を出し、後任者の人材育成や引き継ぎ等も合わせて行います。
そんな中で、事業資金融資の話が進んでいた地銀さんから突然の融資申込みが断られる事態が発生。
理由は、震災前の売上が当行の基準に達していない....とかなんとか。
これから忙しい復興需要を目前にして、そんな折に復興を影で支える宿泊施設に協力すらしてくれない。
そんな金融機関であるのなら、断られて正解だったのかも知れません。
補助金の申請は済んでいるのに地銀は協力してくれない。
焦りを隠せませんでした。
そんな折、市内でホテル業を営んでいるオーナーさんから他行さんを紹介して頂き、別の地銀さんとの話が一気に進んで事業開始の目処がようやく立ちます。
平成26年3月 新建物の建築開始
こうして現建物は平成26年8月に完成、同年10月に事業再開に至りました。
震災から実に3年と7ヶ月が経過していました。
復興にかける想い
当初は旅館業たる業に対しての経験も管理人にはありませんでした。
今後の方針も見通しも無いまま、建物の完成と同時に開業の準備に1ヶ月を要し、見切り発車状態で10月からの開業。
当初は備品類も不備が多く、当初からご宿泊頂いたお客様にもご迷惑をお掛けしました。
開業直後ということもあり、当時のお客様にはご理解を頂き応援すらして頂く日々。
次第に旅館業というもののノウハウを自分たちのものとしていきます。
そのノウハウというものは、殆どがお客様から教えて頂いたようなもの。
日々のお客様との会話のなかで、お客様が求めているもの、食事に対しての趣味嗜好など、次第にどのような料理を出せば喜んで下さるのか?というリサーチも始め、顧客満足のため努力を惜しみませんでした。
私どもの旅館は、客室数も多くなく収容人数も20名足らずの小さな名もなく旅館です。
そんな旅館でも、復興関係のお客様や観光で宮古を訪れて下さる皆さまをお迎えしおもてなしすることで宮古市復興の一助となれは、私自身がこれまでに受けた経験や苦労も報われるのではないか?、そんなふうに思うようになりました。
震災がなければ私は一生会社員のままだったでしょう。
震災が教えてくれたことは一言では語りつくせませんが、敢えて一言で言わせて頂けるのであれば、
「自分自身が進むべき道を教えてくれた」
そんな気がします。